考えたい対象を適切に選択するためにいつどこにどうやって誰と住めばよいのか

学習者を応援する雰囲気のところが生きていきやすい。しばらくはR&Dなところなりラボにいると思う。たぶん海外のほうがよい。いや、日本の雰囲気も好きではある。そりゃ昔の学部図書室がなにより気に入っている。元気かな昔の人たち。ゆるくて居心地がよかった。

 

問題は、深刻な人間不信がまだ癒えていない。他者を信じている世界を認識したい。他者が信じあっている姿をずっと見て学びたいのだが。どうしたものか。もっと昔のときから遡って感じて考えてみよう。寝る前までに。絶望するのは勝手だけど、思考停止をしてよいわけではない。冷笑主義は残念ながら進歩の敵であるときが多い。

留学の長所短所

門前の小僧習わぬ経を読むでも勧学院の雀は蒙求を囀るでもよいからうだうだと考えていたいんだけど、宿題というものはやはりやるものなのでここにまとめておく。テーマは留学の長所短所。英訳して明日提出したい。

 

[留学の長所]

日本に帰ったときの時給が上がる

好きなことができる

異文化が学べる

学位が取れる

住む場所、会う人、使う時間を変える事ができる

キャリアの変更ができる

挑戦ができる

違う人生が生きれる

頭よさぶれる

天才ファミリー・カンパニーの生活が送れる

黒猫白猫の生活が送れる

外国語が学べる

移民資格が取りやすくなる(Phdとればね 

 

[留学の短所]

金がなくなっていく

医者に行きづらい

健康を失う

食生活が変わる

親に会えない

母国語を忘れていく

 

私の留学への欲求について考える。おそらく、当時の日本での散々な状態と昔から好きだった映画や小説やマンガの影響が大きい。『ジャングルはいつもハレのちグゥ』、『宇宙のみなしご』、『天才ファミリー・カンパニー』、『黒猫白猫』、『人のセックスを笑うな』、『GO』、『プラネテス』あたりだろうか。特に天才ファミリー・カンパニーと黒猫白猫で人生が決まったといっても過言ではないと思う。

 

ならば音楽は? となるのだが。ゴラン・ブレゴヴィッチとノースモーキングオーケストラ、ユニコーン、タラフ・ドゥ・ハイドゥークス、フジファブリック、椎名林檎、銀杏ボーイズ、DCPRGあたりかなあ。私は人よりどちらかというと人が作った作品に影響をうけて生きている。

 

小説でいったら、無意識なレベルでコナン・ドイルとアガサ・クリスティは外せない。なんだかんだでEU側にいまいるのはその影響もあるのだろうか。エルキュール・ポアロに聞いてみたいものだ。いちばんはクリスティなので。私の女性に対するイメージってクリスティ作品のイギリス女から来ているような。私はあんまりアメリカ文学に馴染めなかったのだろうかな。触れる順番の問題だったとは思う。

 

Github desktopについて軽くメモ

授業でツールとして指定されて使っている。

 

どうでもいんだけど初期化して使うときにひっかかった。フォルダ指定してレポジトリ作るのだけど、なぜわざわざ新しいフォルダ作ってくれるのだろうか...便利なのだけど気づくのに時間がかかった。それだけ。

Kaggleについて軽くメモ

勉強したことを軽くまとめる。Kaggleについて。

 

plt.hist()については、多次元配列で動く。sns.countplot()はたぶん多次元配列では動かない。DataFrameが引数でないとダメなようだ。stacked bar形式をseabornでやりたいんだけど難しかった。

 

DataFrameの条件付きでの操作はquery()とloc()がよいみたいだ。できれば関数でDataFrameでの操作がしたい。sqliteとの連携もおもしろそう。

 

信頼区間についても勉強した。95%。母平均についても。

 

 

論文の要約を書くときのフレームワーク

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エクセルに要約つけてたけど上司からそろそろ論文書くならMendeleyにまとめてねと言われどうせなら要約つけ直すかと思いフレームワークの確認。

 

1つ目は上司の上司が授業で指導のためにくれたもの。Physiological computing専用フレームワーク。ParadigmはBackgroundから引っ張ってくる感じ。時間がかかるので私はそこまで好きではないと思うこのフレームワーク…。改造して使おう。というか埋めていく順番が好きではない。まず何を問題として定義しそれをどうやって解決したかの後、研究の背景/歴史がくるほうが私は好き。そのあと実験手法。

 

Paper title (paper pdf should be in the folder, following the naming in format SurnameYEAR, eg. Damasio2001_Fundamental feelings.pdf)

 

(a) Paradigm of research

(b) Goal

(c) Hypothesis

 

(a) Analyzed signal/methods

(b) Number of subjects/patients, mean age

 

(a) Analyzed signal parameters

(b) Regions of interest

(c) Used psychological methods/tests

 

which scientific problem will be solved – ACTUALITY (theoretical prospects)

 

Main Results (observed effects)" Conclusions (interpretations)

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プラス上司の上司の別の授業でのフレームワーク

 

- how you would define collective intelligence (CI)?

- is it different from definition in the paper?

- what factors can influence CI (apart from ones in the paper)?

- how you would design a study to check a single factor influence on CI (e.g. team diversity)?

- what is wrong with Hypothesis 1?

- are you happy with the results of the study? If not, what are most questionable items?

- what limitations has this study?

 

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次は落合陽一先生のもの。これは早くまとめれそうだし好み。英訳して使うか…。

 

どんなもの?

先行研究と比べてどこがすごい?

技術や手法のキモはどこ?

どうやって有効だと検証した?

議論はある?

次に読むべき論文は?

元ネトゲ廃人ニートがエストニアで博士課程を目指すようです

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進路についてだけど、いまの師匠に就いてまだ勉強がしたい。内部進学を目指すことにした。たしかエストニアなら博士に行くだけで最低限の生活費は支給されるはず...。まあ、落ちる可能性もあるからなんとも言えない。とりあえず目指すか~くらい。エストニアの政府奨学金は受かったし、内部での博士応募もそこまで難しくないのでは...と。

 

人生で博士号とるくらいしかいまやりたいことがない。本当に。興味範囲としては、アバターと社会規範の関係性についてかなー。まだ調べて生きていたい。博士、3年だとどう考えても足りないよね...。

 

残りの人生を考えたとき、後悔がないのは一流の研究チームに身をおいて彼らが世界をどう認識しているかを見習うことなのだと思う。彼らの世界観が私の今後の財産になるはずだ。

 

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私は既視感と戦ってるのがすきだ。たぶん、愛している。そういった人生を健康のつづく限りすごすのだろう。TSUTAYAやブックオフ通ってたニート時代とまったく変わっていない。

 

研究室通うのなんてネトゲ廃人のときの感覚だ(新一年生への指導は、ネトゲ廃人のときのうちのチームで行っていた教え方と同じだ。役には立っている。「この世に運用できない資産はない」のである。それか「点と線をつなぐ」とかっこよく言ってもよいのかもしれない)。

 

ある意味、はやりの異世界転生ものを身体張ってやっているようなものなのかもしれん。「元ネトゲ廃人ニートがエストニアで博士課程を目指すようです」みたいな。

 

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(追記)

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上司のプロジェクトの打ち合わせ中に「(私が在学中にこれ終わるかわからんし)このプロジェクトでまだ働きたいから博士課程行きたいんだけど」と言ったらその場で他の研究者の人に手続方法を確認してくれた。たぶん受かった? 「いまいるプロジェクトの在籍延長」って名目で博士いけるのか…。いろいろびっくり。

 

ラボの雰囲気はとても好きだ。人間不信の私だが居心地のよさを感じている。「モニタ1台増やして」ってお願いしたらモニタ2台増やしてくれた設備担当の研究者の人にも感謝(その後、博士課程とか上司がいる机の方に強制移動。助かってます)。やりたいことをやれている感覚がある。

 

ネトゲ廃人のときと同じで一日だいたい12時間以上室内にいるんだけど、それで政府から給付型奨学金もらえてまわりから博士課程進学まで推奨してもらえるというのもなんだか変な気持ちである(ちゃんと上司の仕事手伝ってはいるぞ!)。

 

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友人から「もっと規模の大きい国外のラボや違う部署への進学も考えたら?」と助言をうけたけど、いまいるニューロサイエンスチームの人間関係も心地よいし、なんというかポスドクで名の通ってるところ行けばいいかということで日々を過ごしている。うちのチームまとめてる人はEUだと少なくともすごい人だし大学のネームバリューはそこまで気にしてない…。

 

居心地のよさに違和感を覚える自分の自尊心の低さがどちらかというとヤバイ。まあ発達障害の診断受けてて自閉症スペクトラム(アスペルガー症候群)の気があるひとは英語覚えていっかい国外に出てみればいんじゃないかなーとは思った。ネトゲをガチでやってるときと研究がんばってる感覚はそれほどマジで変わらん。

 

機械学習のTA(ティーチングアシスタント)で気づいたこと

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機械学習(人工知能)やプログラミングのクラスについて

 

・プログラミングの授業で先生が設定した授業レベル・授業速度が高すぎて生徒がついてこれないケースを学内でよく見る

・Pythonの習熟度別に授業したほうがよいと思う

・データ構造とアルゴリズムについては宿題でよくね?

・ブレークポイントとデバックを教える - Spyder

・できる子には教え役になってもらう

・教材のレベルについては学期前に吟味しといたほうがよい

・全員のレベルに合わせて授業をするのは難しい 

・何を工夫の対象とすればよいのだろう? まずそこから

・たぶん、実務的にはPerspectivesをなんとなくつかんでもらうだけでもよしとするときもあるんだと思う

 

誰も来ない世界の片隅に研究所を

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ゲーム研究のあつまりに参加。

 

自己紹介をゲーム形式で行う。

 

どういったものかといえば、自分の手で作った(ハサミで切ってもよい)キャラクターをゲームのMAPに見立てた模造紙の上にピンで留める。時計回りでMAP上のキャラクターをつまみ上げて、世界観や生活の設定説明をするもの。もちろん、それを自身の性格を合含めて話してもよい。キャラへの自己投影具合は人によるから、お好みで。

 

私はMAP上の隅っこに研究所を建てて、時間がなかったからキャラは自分の10秒で描いた似顔絵にした(Edge of the universeと最初にMAPに書き込んだ友人は天才だと思う)。

 

自己紹介をし終わったあとに、急に寂しくなった。

 

誰も来ない象牙の塔の権化のような世界の片隅に研究所を建てたとして好きな研究ができたとして私は幸せなのだろうか。それはないと思う。

 

人と接する研究をしていこうと思ったのだった。人に接せれないのはさすがに辛い。私は現実逃避を愛している。それでも人と接することを手放せそうにない。現実逃避をして人と接する仕事があればよいのだが。人生?


他人のファジーさに救われている

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他人のあいまいさに助けられている。

 

そのために他人は存在しているのではないかと思えてしまった。不思議さやいい加減さを自分に教えてくれているのかと。

 

私は生活リズムを崩すと異常に完璧さにこだわるようになる。生産性はかえって落ちる。今日から学校が始まって、他人と会話をたくさんしておかしくなっていた睡眠周期を元に戻すきっかけがつかめた。

 

私にとって、「学校に週7回行って勉強すること」と「1週間に1時間しか外に出ない生活をすること」は、ほとんど一緒だ。それでも、健康面でいえば明らかに前者のほうが生活の調整がしやすい。

 

他人とは厳密なものではない。今日はそう感じる機会が多かった。私の認識はうつろいやすく、それによって他者についての記憶もいい加減になる。結果的に、他人とはあいまいなものになる。それくらいでいいんじゃないかと思う。

 

他人に求めるものは壊れきっていて元にもどらなくってもよいのだ。自己像も最も親しい他人に入るのだから、自らに多くを捧げる必要も元からない。気楽でなくても憂鬱でなくても、なんでもありなのだろう。

 

 

コンピューターに美観を与える / 「見なす」とは?

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コンピューターが人間と同じものを見れるとする。視界として。

 

生理学コンピューティングの下地があれば、「コンピューターに美観を与える」という発想が出てくる。

 

人間とコンピューターの美観(たとえば映像にたいしての)が似たようなものになったらどうなるのだろうか。

 

似てるところがわかってくれば、人間独自の美観とはなにかがはっきりすると思う。ちょうど、他の生物と人間の体の仕組みを比較することによって、人間の特徴的な機能が理解しやすくなるのと同じように。

 

人間のように振る舞うものを、人間はけっきょく人間と見なす。

 

現実の模倣をするものを、人間は「模倣したもの」とは解釈しない。実質的に現実と同じ機能を果たすものと見なす。私はそれは高度なことだと思う。他の生物はするのかな...。

 

非現実のものをなぜ私たちはここまで日常のなかで必要としているのだろうか。すばらしいと思えることだけど、なぜなのか気になる。

 

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言語学のカンファレンスがうちの大学であって、そのときに東大の博士課程3年生の方にも似たような話をした。

 

印象に残っている会話で、「けっきょくコンピューターが人間の美観を模倣したとしても、コンピューターには”美”というものは理解できないですよね」というのがあった。

 

そのとおりだと思う。

 

コンピューターに「(たとえば)Aは美しい」という解釈を定着させることはできる。「美しいとはなにか」も訓練して教えることは可能に思える。でも、「”美”とはなにか」は無理なのではないだろうか。

 

生来的なものの機能(生まれたときから必然的に感じる音や映像の心地よさ)をコンピューターに考えさせるのは難しいという話を書いている...?

 

 

 

 

 

なぜここまで認識は多様なのだろうか

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朝食の会話で人間の豊かさについて味わったあと、昼には理不尽に辟易して、日の沈む頃には自分の愚鈍さに嘆くことをあきらめる。

 

自分の感覚の多様さに驚かされる。

 

認識っておもしろい。他人の存在は娯楽だ。

 

自分のことを知ることを諦めないでいたい。化学と電気だけではもったいない。

 

明日からまた学校に行く生活が始まる。

 

 

 

「高度」なAIってなんなのだろう

www.youtube.com

 

(動画について : 姿勢推定でダンスの動きを抽出。他人の姿に切り替えたうえで同じダンスの映像を人工知能が生成する。論文のタイトルが「Everybody Dance Now」というクールっぷり。カリフォルニア大学バークレー校。「あなたもクラシックバレエとかロボットダンスを(映像のなか)で踊れることになる」)

 

それはただ高度に見えるだけのコンピュータサイエンスなんだと思う。

 

そのように見えてそのように動いたらそれはそれである、というか。プログラミングでいうと、ダック・タイピング(”アヒルのように歩き、アヒルのように鳴くものはアヒルに違いない”)。

 

「高度に見えるAI」という表現にある一定の理解ができるとして。同意している部分の「高度」とはいったいどんなものなのだろうか? 

 

私たち人間は「高度な活動」というものにある一定の割合で共通な感覚を持っているとか?

 

もちろん、機械学習の理論として「原始的なものを発展させて」という意味もあるだろうけど。

 

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いまは(当然のようにまた予定変更で)機械学習においての遊びや芸術に関することに詳しくなっていこうかなと考えている。

 

人間は暇になったら、なにをするのだろう。人間の仕事は人工知能に奪われたと表現するのだろうか。人工知能は可処分な時間を生成したとも言える。

 

やりたくない仕事をやらなくて済むという文脈もある。

 

人工知能がお医者様のレントゲン判断の仕事2000時間を5分で終わらせたとする。浮いたおよそ2000時間で、お医者様は、より優先順位が高い仕事に集中できるとする。

 

「ふつうの職場」で2000時間浮いた場合、その2000時間はどうなるのだろう。その場合の「ふつうの職場」とはなんなのだろう。

 

映像解析と映像生成についてやると思う。どうなるかはわからない。ストレスフルである。はっきりいって。寿命縮んでそう。

どこから来てどこへ行くのか

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人類はどこから来てどこへ行くのか、という話はしない。ただの私の話だ。

 

けっきょく小さな漁師町の海沿いの家に生まれて、そこから紆余曲折あってエストニアにいる。英語圏での生活。起業もしたし、次の学期からは人工知能の授業でティーチングアシスタントも始める。

 

1年後のことなんて予測が不可能だ。来月に何が起こるかもわからない。

 

「先行きが不透明」や「見通しが悪い」という言葉での表現は間違っている。透明度の高い空間で生きているとは思う。透き通ったランダムネスが先にあるのだろうということ。

 

たぶん、もう死に方は選べないと思う。「どうやって」も、「どこ」でも、「なぜ」も。わからん殺しされないように気をつけたい。でも、それだったらそれでもう仕方ないかなと。健康ではありたい。

 

不規則性が飛び交う空間のなかで、圧倒的な不確定性と付き合っていくには教養と筋肉がやっぱり重要ということはわかってきた。

 

せめて未来を祝福できるように、偶然を肯定的に捉えることができるように勉強を続けたい。勉強は楽しい。苦しいときがもっぱらだけど、そのなかで楽しみ方をもっと身につけていきたい。勉強したことが視点にもなり得るだろう。

 

 

Windows10上でKeras使ってGPU演算 (CUDA v9.2)

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授業で出番がくるだろうからWindows10でKerasを動かすやりかたを試してみた。GPU演算。

 

Visual Studio 2017(C++, SDK)

CUDA(v9.2)

cudnn(v9.2)

Anaconda(Python 3.5.5)

Windows10 Pro

GeForce GTX 1070

 

授業で気をつけたいことは、GUIでTensorflow-gpuインストールしないでCUIのAnaconda Promptでインストールしてねーってところ。

 

システム環境変数は勝手にプログラム側がパス通してくれてたし、こちら側が手動で環境変数を追加する必要はない。

 

不安な点はcudnnのファイル置き換えがフォルダごとなのかフォルダ直下なのかはっきりしてないくらい。

 

GPU環境(Anaconda関係なしに)が整ってるかはコマンドプロンプトでnvccと打てば確認できる。nvcc fatalと返ってくればよい。

 

Tensorflow上でGPU使ってるかの確認はSpyder上でTensorflow呼び出してなにかしらのコードを実行すればよい。タスクマネージャーでGPU使用が認められればOK。

 

 

参考リンク

qiita.com

 

liaoyuan.hatenablog.jp

 

qiita.com

 

-----追記(2018.10.30)-----

研究室のPCでやる場合+OpenCV使う場合は、Adminで作業したほうがよいです。権限の問題でimportできない場合がある…。あと、仮想環境はPython3.7は現時点(2018.10.30)では使わないでください。Tensorflow-gpuがインストールできない…。あと研究室のPCはCUDAの9.0だと思います。9.2じゃないです。

「頭が悪い」の条件

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私は他人を褒める文脈で「バカですね!」と言うときがある。価値観に従って生きている人が好きなのだ。わかりやすくてよい。

 

他人を非難する文脈で「頭が悪いですね」と言うときもある。「嫌いな人に嫌われるのは損失である」と思っているから、仲の良い人としか口喧嘩にならないというのは付け加えておくとして。

 

頭が悪いというのは、個人的にはどういう解釈をしているのだろうか。ここで少し考えたい。

 

おそらく、想像力の欠如なのではないか。その場合、視点が先なのだろうか、想像力が先なのだろうか。