コンピューターに美観を与える / 「見なす」とは?

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コンピューターが人間と同じものを見れるとする。視界として。

 

生理学コンピューティングの下地があれば、「コンピューターに美観を与える」という発想が出てくる。

 

人間とコンピューターの美観(たとえば映像にたいしての)が似たようなものになったらどうなるのだろうか。

 

似てるところがわかってくれば、人間独自の美観とはなにかがはっきりすると思う。ちょうど、他の生物と人間の体の仕組みを比較することによって、人間の特徴的な機能が理解しやすくなるのと同じように。

 

人間のように振る舞うものを、人間はけっきょく人間と見なす。

 

現実の模倣をするものを、人間は「模倣したもの」とは解釈しない。実質的に現実と同じ機能を果たすものと見なす。私はそれは高度なことだと思う。他の生物はするのかな...。

 

非現実のものをなぜ私たちはここまで日常のなかで必要としているのだろうか。すばらしいと思えることだけど、なぜなのか気になる。

 

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言語学のカンファレンスがうちの大学であって、そのときに東大の博士課程3年生の方にも似たような話をした。

 

印象に残っている会話で、「けっきょくコンピューターが人間の美観を模倣したとしても、コンピューターには”美”というものは理解できないですよね」というのがあった。

 

そのとおりだと思う。

 

コンピューターに「(たとえば)Aは美しい」という解釈を定着させることはできる。「美しいとはなにか」も訓練して教えることは可能に思える。でも、「”美”とはなにか」は無理なのではないだろうか。

 

生来的なものの機能(生まれたときから必然的に感じる音や映像の心地よさ)をコンピューターに考えさせるのは難しいという話を書いている...?