他人のファジーさに救われている

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他人のあいまいさに助けられている。

 

そのために他人は存在しているのではないかと思えてしまった。不思議さやいい加減さを自分に教えてくれているのかと。

 

私は生活リズムを崩すと異常に完璧さにこだわるようになる。生産性はかえって落ちる。今日から学校が始まって、他人と会話をたくさんしておかしくなっていた睡眠周期を元に戻すきっかけがつかめた。

 

私にとって、「学校に週7回行って勉強すること」と「1週間に1時間しか外に出ない生活をすること」は、ほとんど一緒だ。それでも、健康面でいえば明らかに前者のほうが生活の調整がしやすい。

 

他人とは厳密なものではない。今日はそう感じる機会が多かった。私の認識はうつろいやすく、それによって他者についての記憶もいい加減になる。結果的に、他人とはあいまいなものになる。それくらいでいいんじゃないかと思う。

 

他人に求めるものは壊れきっていて元にもどらなくってもよいのだ。自己像も最も親しい他人に入るのだから、自らに多くを捧げる必要も元からない。気楽でなくても憂鬱でなくても、なんでもありなのだろう。