「高度」なAIってなんなのだろう

www.youtube.com

 

(動画について : 姿勢推定でダンスの動きを抽出。他人の姿に切り替えたうえで同じダンスの映像を人工知能が生成する。論文のタイトルが「Everybody Dance Now」というクールっぷり。カリフォルニア大学バークレー校。「あなたもクラシックバレエとかロボットダンスを(映像のなか)で踊れることになる」)

 

それはただ高度に見えるだけのコンピュータサイエンスなんだと思う。

 

そのように見えてそのように動いたらそれはそれである、というか。プログラミングでいうと、ダック・タイピング(”アヒルのように歩き、アヒルのように鳴くものはアヒルに違いない”)。

 

「高度に見えるAI」という表現にある一定の理解ができるとして。同意している部分の「高度」とはいったいどんなものなのだろうか? 

 

私たち人間は「高度な活動」というものにある一定の割合で共通な感覚を持っているとか?

 

もちろん、機械学習の理論として「原始的なものを発展させて」という意味もあるだろうけど。

 

f:id:thirty_eesti:20180826055052j:image

 

いまは(当然のようにまた予定変更で)機械学習においての遊びや芸術に関することに詳しくなっていこうかなと考えている。

 

人間は暇になったら、なにをするのだろう。人間の仕事は人工知能に奪われたと表現するのだろうか。人工知能は可処分な時間を生成したとも言える。

 

やりたくない仕事をやらなくて済むという文脈もある。

 

人工知能がお医者様のレントゲン判断の仕事2000時間を5分で終わらせたとする。浮いたおよそ2000時間で、お医者様は、より優先順位が高い仕事に集中できるとする。

 

「ふつうの職場」で2000時間浮いた場合、その2000時間はどうなるのだろう。その場合の「ふつうの職場」とはなんなのだろう。

 

映像解析と映像生成についてやると思う。どうなるかはわからない。ストレスフルである。はっきりいって。寿命縮んでそう。